散歩道 written by ハマゾノリョウジ


ひょんなことで午後から仕事が休めることになったので昼過ぎには家に帰ってみた
 

奥さんと子どもがNetflixで子ども向け番組をダラリと観ている
 

存分に残り少ない産休ライフをエンジョイしているようだ
 

「たまにはゆっくりしてもらおう」という表向きの理由と「一旦ここで機嫌ポイントを稼ごう」という裏向きの理由で奥さんを家でゆっくりとさせ、子どもと2人で散歩に行くことにした
 

子どものパジャマを剥ぎ取りアースカラーでテキトー且つ無難にまとめたコーディネートに身を包ませ、僕もエイリアンの写真の載ったパーカーをきて抱っこ紐に子どもを固定して外に出た
 

まだ2月だというのにさながら5月の陽気
 

僕の脳内ではJUDY AND MARYの「散歩道」が脊髄まで響くほどに流れている
 

子どもと2人きりで散歩するなんて実は初めてだ
 

谷山緑地公園をぶらっと歩き出す

 

家で遊ばせるのもいいが、たまには外に出て木や空を見せてネイチャーに触れさせることもまた大事だと思っている派のいわゆるおじさんになってきた僕はここぞとばかりに何もわかっていないであろう子どもに木を見せた
 

自分より大きい人間
 

よりも遥かに大きい木
 

その姿にただポカンと口と鼻の穴を広げて見上げている
 
 

そのアホ丸出しの愛くるしい顔を僕は見下ろしている
 

そして散歩を始めてものの5分ほどで子どもは寝てしまう
 
 
 

30 を過ぎたおじさんが1歳に満たない、ぐったりした幼児を己の身体に縛り付け、谷山緑地公園を闊歩する
 

最初のエピソードがない状態でこれだけを聞いたら皆の頭には道化に身を扮したサイコパスの姿がよぎるだろう

 

しかし僕が「奥さんがどうで」「散歩がどうのこうの」と話したので僕がサイコパスではないということがわかるのだ

 

本来はそうなのだ

そうあるべきなのだ
 
 

前置きを知って初めてその姿が正常かどうか判断するべきなのだ
 

しかし公園で出会った男性が子どもを抱っこして闊歩していたらみんな
 
「イクメンね」 

なんてことになるのだ
 

もちろんそうかもしれないがそうじゃない可能性だって大いにあるということを言いたい
 

その男がサイコパスではない、誘拐犯ではないということがなぜ言えるのか
 

全てを疑ってかかれということではない
 

「その物事だけ見て判断せず、その前後も見よ」ということだ
 

written by ハマゾノリョウジ

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